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町政情報

小山町の歴史

縄文から弥生時代

小山町域に最も古く人の姿の痕跡が認められる資料は、柳島沼子(ぬまこ)池畔の丘陵台地に占地する沼子遺跡から出土した約7,000年前(縄文時代早期前半)の土器片です。

獣を狩り、魚を捕り、木の実を拾ったりして生活していた縄文時代(1万年前~2,300年前)の人々が使った土器や石器は、生土や柳島・湯船・竹之下・足柄峠・桑木・一色・吉久保・須走などから出土しています。

注目すべきは足柄峠から縄文土器が出土していて、当時から人の往来が確認できることです。

稲作農耕が始まる弥生時代(2,300年前~1,800年前)になると、桑木・竹之下・須走などから土器など当時の生活道具が見つかっています。

古墳・奈良・平安時代

今から約1,700~1,400年程前を古墳時代といいます。当町域には、桑木あたりに古墳があったと記す資料や、塚と名付けられた墳丘らしきものはいくつか見られますが、現在まで古墳として確認されているものはありません。ただし、この時代の遺物の出土地は、竹之下・桑木・上古城・須走などに何か所かあります。

奈良時代から平安時代にかけては、足柄峠を往来する人々が急激に増加し、記録や歌などの文学に頻繁に登場するようになります。この地域には、足柄峠越えの拠点、東海道から甲斐への分岐点という機能をもった横走(よこばしり)郷が存在し、横走駅や横走関があったことが分っています。

竹之下の上横山遺跡は大宝律令時代の遺跡で、藤原京や平城京、東北地方や埼玉比企地方、東美濃、遠江、相模、甲斐などの土器が出土し、当時ここが交通の要衝であったことを示しています。

また、県立小山高校敷地の横山遺跡からは、古墳時代から平安時代にかけての大規模な集落や、大形の建物跡、大量な土器や金属器、古銭といった当時の賑わいを彷彿とさせる遺物や遺構が出土しています。

平安時代の後半から戦国時代初期にかけては、伊勢神宮の荘園、大沼鮎沢御厨(おおぬまあゆざわみくりや)の一部だったとされ、中世から現在まで北駿地方を指す地名として「御厨地方」が通称になっています。

鎌倉時代から南北朝期

鎌倉時代に入ってもなお足柄峠や籠坂峠は多くの人たちが行き来し、新たに宿が設置された竹之下には将軍源頼朝や頼経、そして日蓮などが宿泊しています。

この時期の竹之下の領主・支配者は、葛山(かずらやま)氏の一族・竹之下孫八左衛門だといわれ、多くの伝承が残っていますが、資料的には言い伝えの域を出ません。また、承久3(1221)年に起きた後鳥羽上皇などの倒幕計画である承久の乱の首謀者の一人藤原光親(みつちか)が、籠坂峠で処刑されています。

南北朝期、日本を二分した戦いの中でも、とりわけ有名な竹之下の合戦は、足利尊氏や直義と、後醍醐天皇方の尊良親王や二条為冬、脇屋義助らが戦い、二条為冬は討死し、足利方が勝利します。この合戦の伝承地が数多く存在しています。

南北朝末期には、嘉慶銘宝篋印塔などから菅沼の甘露寺の存在や人々の生活の痕跡が確認できます。また、至徳銘の掛け仏などにより、富士山須走口登山道や登山者、宿泊施設などが、すでに存在していたことが分ります。

室町から戦国時代

室町時代には、御殿場市域や裾野市の一部などと共に小山町域も、大森氏一族の支配するところとなり、生土の乗光寺・小山の正福寺・中島の勝福寺などが大森氏創建と伝えられています。

明応4(1495)年、大森氏は北條早雲のため小田原城に滅亡します。その後、駿東地方の支配者になった葛山氏は、戦国時代のほとんどを、今川・武田・北條という有力な戦国大名に挟まれながらも、したたかに生き抜いてゆきます。しかし、永禄12(1569)年頃を境に、今川方から武田方への転身を図った葛山氏が北駿地方から姿を消し、小山町域は武田と北條の接点として、支配をめぐる両者のつばぜり合いの場となります。天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原城攻めにより北條氏滅亡後、秀吉の臣中村一氏(かずうじ)が駿府城に入り、慶長5(1600)年まで当地方はその支配を受けます。

江戸時代の村々

江戸時代の当町域の村は、阿多野・上野の両新田を除き、慶長6(1601)年より沼津城主大久保忠佐(だだすけ)領、同18年より幕府領、徳川頼宣(よりのぶ)領、元和5(1619)年より幕府領、寛永元(1624)年より徳川忠長(ただなが)領、同十年より小田原藩領(稲葉氏)となります。

その後寛文12(1672)年、阿多野新田が開かれます。上野新田の成立についてはよくわかっていません。天和3(1683)年より柳島・吉久保・大胡田・新柴・桑木・下古城の6カ村が稲葉紀伊守知行所となり、貞享3(1686)年より小田原藩主は大久保氏に代わり、元禄12(1699)年より湯船・上野・上野新田・棚頭・菅沼・用沢・阿多野新田・大御神・一色・上古城・中日向・下小林他13カ村が大久保長門守領となります。下古城・菅沼両村は共に小田原藩領との相給ですが、宝永5年以降は2村に分立しています。

宝永4(1707)年11月の富士山噴火の降砂の大被害により、翌5年町域の全村が幕府領となり、伊奈半左衛門忠順の支配となります。寛保3(1743)年には小山・生土・中島・藤曲・下古城・所領・竹之下・須走・菅沼の9カ村が小田原藩領に復しますが、他の19カ村は幕府領として残り、宝暦13(1763)年より韮山代官所(江川太郎左衛門)に支配替えとなります。安永7(1778)年より、大胡田村は大河内知行所を、一色村は山岡知行所を分郷して相給となり、阿多野新田は幕府領を離れて山岡知行所となります。同9年より大御神・中日向・上野・下小林他5カ村は島田代官所支配に転じています。

宝永5年から幕府領であった18カ村は、天明3(1783)年より2~3年の間に、15カ村が小田原藩領に復し、柳島・吉久保の両村も荻野山中藩領となり、大御神村はただ1村、引き続き幕府領として江戸時代後期を送ることになります。

小山の近現代

明治維新後、当地方の村々は小田原藩から駿府藩(静岡藩)へ領分替えになります。明治4(1871)年7月の廃藩置県後、静岡県の下で明治5年の戸籍編成、学制頒布、明治8年から15年にかけて地租改正事業がすすみました。この土地改革は広大な富士・足柄入会地の官民有区分や共有入会地の区域・権利関係の認知・協定など地元住民の生活を左右する重要問題でした。明治前期の地方制度は、明治5年の大区小区制から郡区町村制、連合戸長役場設置を経て町村制が施行されるまで目まぐるしく変わりました。

明治22(1889)年4月の町村制により、当地では六合村(小山・生土・中島・柳島・湯船・藤曲の各旧村)、菅沼村(旧菅沼村、御代知菅沼村両旧村)、足柄村(竹之下・所領・新柴・桑木の各旧村)、北郷村(大御神・上野・中日向・棚頭・用沢・一色・古沢・下小林・阿多野・吉久保・上古城・下古城・大胡田の各旧村)、須走村(旧須走村)の5カ村に統合されました。また同年、東海道本線が開通し、小山駅(大正元年から駿河駅、昭和27年から駿河小山駅)が開設されました。そして、鉄道幹線の開通で戦前期日本の基幹輸出産業であった蚕糸業の普及と拡大、日本の工業化を先導した富士紡績株式会社の進出により、農作と山稼ぎの山村は新時代を迎えます。

富士紡が創業の地にした小山工場は明治31(1898)年、5万錘規模の運転を開始し、大正3(1914)年までに第1~第5工場が完成します。それと共に小山地区は発展し、大正元(1912)年8月1日、六合村と菅沼村が合併し小山町が発足しました。大正12(1923)年9月1日の関東大震災は当地に大被害を与え、また昭和9(1934)年、東海道本線が熱海経由になり、これまでの幹線はローカルの御殿場線となります。

昭和22(1947)年、新憲法下地方自治法に基づく地方自治が発足し、農地改革や六三制教育が実施されます。一時軍需工場になっていた富士紡も紡績工場として復活し、昭和29(1954)年、自衛隊富士学校が須走地区に設立されました。その頃、町村合併の促進により小山町は昭和30(1955)年足柄村、翌31年北郷村(翌年古沢区分離)、須走村を合併し、新小山町が誕生、現在の町域に拡大しました。

1960年代の高度成長期以降、農業の後退、重化学工業化の中で富士紡の地位変化、東名高速道路の開通(昭和44年)によるゴルフ場や霊園の開発、富士スピードウェイの開場などが続き、小山町の姿は大きく変貌していきました。

 

◆『小山町史』編纂専門委員によって執筆された文章(町勢要覧1988年版)をもとに、当時の委員のアドバイスを受けて作成しました。

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地域振興課
電話 0550-76-6135