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歴 史
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縄文時代の土器が須走梨木平で発見され、中期のものが生土、吉久保、足柄上矢台、湯船、一色などで発見されています。これは4千年ないし4千5百年前のものといわれています。弥生式後期のものが、須走西沢の王子が池、一色西裏、上古城中の丸、桑木池の沢、須走御登口、須走地水溜、須走一の沢、柳島に分布しています。これらは、1700年ないし1800年以前のものといわれます。桑木池の沢石室、上古城中の丸や足柄峠、籠坂峠の土師器、須恵器は1500年ないし1700年以前のものといわれます。このころ原始社会が崩壊し、古代社会を形成しました。東西交通もようやく多くなり、足柄はその要所でもあり、難所でもありました。
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国の政治が整い、中世に入って桑木、新柴、竹之下、小山、生土、中島、湯船、藤曲、菅沼の10か村が駿河国鮎沢庄御厨郷坂下組合といいました。
北郷、須走は鮎沢庄といいました。ところが、戦国争乱の世となると、その位置が相模の北条、甲斐の武田、駿河の今川の間にあるため、争乱の場となりました。承久の変に藤原光親卿は籠坂峠で殺され、竹之下には新田勢に破られるなどの合戦の場になりました。
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※ 御厨:神宮領を意味 坂下:富士の泥流の裾を意味
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一色(沼津領)を除き、すべて幕府領(天領)および小田原領に属し、足柄峠を越えて、小田原地方と往来が盛んになりました。
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明治5年10月、名主、庄屋制が廃止され、戸長制の施行にともない、現在の小山町の全域は静岡県第一大区第五小区に属しました。
明治22年町村制の施行により、小山、生土、中島、柳島、湯船、藤曲が六合村となり、菅沼、竹之下、新柴、桑木が菅沼村と称しました。用沢、棚頭、大御神、中日向、上野、阿多野、吉久保、大胡田、上古城、下小林、一色、古沢が北郷村となり、須走村は高根村と組合村となりました。
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六合、菅沼村の両村は、明治31年富士紡績株式会社の開設により、農山村から商工業の都市的形態を備えるまでに発展しました。工場は隆盛により、人口も増加し、両村の利害が共通することから、合併が有利であるとして、大正元年8月1日合併し、町名を小山町としました。
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昭和28年9月に施行された町村合併促進法により、小山町は昭和30年4月1日、足柄村と合併しました。また、北郷村と昭和31年8月1日合併、同年9月30日に須走村と合併し、人口も2万5千人を越えました。
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企画調整課
広報広聴・秘書スタッフ
T E L:0550-76-6135
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更新日: 平成19年2月9日
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